■ 米陸軍、マシンガンを装備したロボット「Talon」を2005年導入へ 
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0412/03/news061.html
雅楽多ブログさんで知ったニュースです。
このニュース自体にも衝撃を受けたのですが、このニュースに添えられている管理人のぐっちさんのコメントに唸りました。正に。
僕は湾岸戦争の際に、ニュースに映る光の束を「キレイだなあ・・・」と一瞬でも思ってしまった人間なのですが、後に思い返した際の自分の想像力の欠如の対する怒りのような感情と、「下に人や街があるのはわかっていたけど、それでもキレイだと思ってしまったんだ」という心の声とでも言いましょうか、そのやり場に困ったことがあります。そりゃあ戦争を起こす人間は憎らしいのですが、でもあれを少しでもキレイだと思ってしまった俺には最早それを批判する権利なんてないんじゃないのか?とか考えたり。
僕は爆撃機乗りが眼下に向かって爆弾を投下する瞬間に彼の頭の中にあるのは、その対象への憎しみよりも、対象のことを考えないようにする気持ちだと思います。どんなに憎らしかろうが、戦争の中に身を置いて狂気に囚われていても、やっぱりそのボタンって押したくないもんだと思うんですよ。というかそう信じたい、って感じですけど。
昔なら、戦争から無事に生還した人間ほどその後心を壊す、っていうのは正に無事に生きて帰ってきたからこそ、それだけ多くの人を傷つけ殺し、あまつさえ狂気に流されるまま略奪や婦女暴行に参加したことだってあるかもしれないわけです後方の支援などに派遣されていたのでもなければ。でも結局それで病気になってしまう人っていうのは、どんなにそれをしている間には何か濁流のような感情に飲み込まれていて、何も感じないで殺人や簒奪行為をしていたとしても、やっぱり心の奥底では傷つかないようにしまいこんでいた良心が叫んでいたってことですよね。
でも今や戦争は恐ろしい進化の過程にあって、原子爆弾を広島や長崎に落とすのに、B29から眼下に広島や長崎の街を臨む必要も無く、ただ見えない対象に向かってボタンを押すだけ。「見えない」いうことはさらなる想像力の欠如を招き、より戦争を乾いたものにしていくでしょう。
1つの日本刀でそんなに切れるはずが無い、といった見地から、アジア太平洋戦争での日本軍の中国での所謂「百人斬り」は実際には無かった、という説が出ていますが、僕は心情的にもそれは無かったと思います。まあ、これも思いたい、という類の感情ですが。目の前にいる生きている人間を、どんなにそれまで敵国の人間は人間ではないといった感情に身を任せ戦ってきたとしても、100人も続けて殺せるはずが無い、と思うのです。どうしたって助けを求める被害者の叫びに、自分と同じように家族や愛する人たちがいて、日々を必死で生き抜いてきた同じ人間だっていうことを思い出さざるを得ない、と。僕は詳しくないので、この事件があったとする人に、「上官の監視の下最後まで斬り続けさせられたんだ」などと言われては反論のしようもないのですが、とにかく実際にあったなかったではなく、絶対にあったとしても途中でもうやりきれない気持ちでいっぱいになるはずだ、ということで。
しかしこのロボットではどうでしょうか。もしこのロボットが戦場に派遣されそのような状況になったとしたら・・・。シューティングゲームの感覚で我先にと競って人を撃ち殺していく。そんなことになりはしないでしょうか?モニタの先の光景が、正にゲームのモニタの中のように思えてしまい、ハイスコアを競い合うように。対象にマシンガンをぶっ放す。
そうならないためには想像力が必要で、その想像力は、きっと無くならないであろうとは正直なところ思いますが、世界から戦争を無くすことの出来る唯一の「力」なのではないか、と思います。自戒の念をこめて。

