第三十九回 泣かなかったり、泣きたかったり、泣いたり

携帯電話を落としました。バイト先で、用足し直後の汚便所に、ポチャンと落としました。上着のポッケから、綺麗に滑り落ちました。12月24日の夜でした。その後、当然それはウンともスンとも言わなくなり、結局もう電源も入らないので、色んな人の連絡先を一気に失いました。けれど大丈夫です。今の所、特に困る事は無いんです。元々、自分は電話が苦手なので一切かけませんし、かかってくる事も滅多にありません。(身近以外での)知人からの着信でも、怖くて無視する事が今でもあります。その人が嫌いなので無く、電話での会話が嫌いなのです。けれどバンドなどやってますと、最低限の連絡網はどうしても必要になります。手紙では日がかかります。鳩を操る能力もありません。そこで、電子メールの登場となります。が、自分はパソコンを持っておらず、ろくに扱う事も出来ません。買う・繋ぐ・維持する・のお金も知識もありません。あのテの流行・逃避世界(素性も明かさずにデマカセこきっぱなしで、しかもそれが易々と通る、カモフラージュの汗の海)にどっぷりハマるのは危険だと、以前から警戒もしています。なので結局、手っ取り早い携帯電話を使う事になるのです。只、これに関して便利だと思うものは、電子メール一点のみです。執着、こだわり、一切ありません。使い勝手の良い安いものを買い、壊れるまで何年も使い、壊れたらまた、その時安く売ってるやつを買います。今までもずっと、そうして来ました。ところが今回自分が買い換えたものは、「ウォークマンケイタイ」などという新しめの機種で、姿形も、コレがなかなかオシャレオシャレアハンハンな、実にオシャレめさったもの(←自分は未だにあの唄の意味を知らないので、この使い方が正しいのかどうかは不明)なのでした。何故そういうものを選んだか。身近な人間が、既に同じのを持っていたんです。要するに、ツムジからツマサキまでの全ての設定を、自分でしないで済むのである。してもらえるのである。それゆえの選択なのでした。ちょっとしたムック本並の大きさの説明書など、煩わしいのである。そんなものチマチマ読みたくないのである。チマチマ読みたいものは、もっと他に山程あるのだから。更に言い訳を付け加えるなら、自分はウォークマンというものを、もう何年も持っていなかった。出掛けるにもこもるにも、ふたり助平の際もひとり助平の際も、何をするにも音楽を聴きながら(主にドアーズだが)を最も良しとする、この男がだ。機械と相性が悪いんじゃないかと、何度も何度も思った。ウォークマンにしろステレオにしろビデオデッキにしろ、自分の周りの精密機械はことごとく、すぐに壊れるのである。機能がモタつけばすぐさま、ガンガン叩くからだろうか。侮蔑の眼差しで床に投げつけるからだろうか。そう言えば自分は、人間以上に機械に対して短気である。これは最早一生、矯正されない気質だと思う。それをするしかインプットされてないくせに、それをする為だけに生まれた(そこが人間との決定的な違い)くせに、その唯一の役割すらまともに果たさないポンコツメカが、どうしても許せないのだ(手塚治虫の漫画なら、自分は間違い無く悪役側だろう)。だから言う事を聞かなくなったら、ムキになって叩くし放るし、真面目な顔で罵倒さえします。ウォークマンの類なんて物心ついてから、もう10個近く壊してるんじゃなかろうか。テープは巻き込まれるしCDは音飛ぶし、もう信じられなくなって放り投げて買わなくなり、そのまま使う事がなくなり、五年以上が経ちました。そこでこの「ウォークマンケイタイ」ですが、何と約600曲まで収録可能だという。電池も長持ちするという。勿論この設定も、件の隣人に丸投げである(だって何度も言うけどうちにはパソコン無いんだもん)。とりあえず井上陽水の楽曲を片っ端からぶち込んだ。無論、80年代の陽水も90年代の陽水もだ。次に、(今まさにタイムリーだが)安全地帯をぶち込んだ。アルバム五枚目までの、アーバンで危険なナンバー選りすぐりである。そして次は、自分が粗暴な黒いロックやパンクに出会う前の十代前半童貞時代によく聴いていた、日本のAORを入れるつもりだ。その頃を想い出して、只ひたすらに切なくなりたいから・・・・に、他ならない。昔の様に切なくなりたいのだ。今、この自分は「恋の感覚」なるものを、どうやら完全に忘れてしまっている。とりあえずは「恋の想い出」をなぞる事から始め、徐々に蘇って欲しいと思っています。「恋慕の情」の、あの鬱陶しさが蘇れば、もう少し不気味な曲が書けそうな気がするんです。自分は、そういう念を含んでの「暗い歌手」でありたいと思っています。

切なくなると言えば、新しい年が始まり、かと言って別に何の心境も環境も変わらないので、それこそが無事に「明けましておめで」たいのであるが、改めてまた一つ、思い知らされた事がある。それは、「広末涼子がもし死んだら、俺は身も心も本気で大泣きして更に憂鬱な男になり、憂鬱な余生を過ごすだろう」というものだ。キョトンとしないで聞いてもらおう。この男は今年も大真面目である。確か年末だったと思うが、夜中にテレビで「恋愛冩真」とかいう映画をやっていた。自分がそれを見たのは二度目である。初見時も深夜テレビだった(自分は映画館という場所に滅多に行かない。苦手である。レンタルビデオ屋にはもっと行かない。特にツタヤは大嫌いと言うか憎んでさえいる。関係無いがブックオフには買う側として頻繁に行く)。広末涼子はこの映画のヒロインだが、物語なかばで死ぬ。元旦には、押し入れから掘り起こしたビデオテープの山から、ドラマ「聖者の行進」の映像を見付け、これも久し振りに見た。広末涼子は、やはり中盤で死ぬヒロイン役である。テレビの前で、自分は泣きそうになる。と、思ったら少し泣いている。動く彼女の顔を長く見ていると、いつも何だかウルウルだ。そう言えば、「世紀末の詩」というドラマでも確か彼女は第一話で既に死んでいて、可哀想な幽霊の役だった筈である。そこでもやはり、いつもの様に彼女は悲しく、可愛かった(多分それを録画したものも押し入れの何処かにある筈)。彼女の微笑みは、暗い。今も昔も、暗い。何だか寂しい笑顔だなぁと、ずっとそう思っていました。この先、彼女の内や外や周りに何が起こり、それで彼女がどう動こうが、自分はおそらく一生彼女を好きなままだと思うのです。男の趣味が最悪でも。そのせいで妊娠出産結婚離婚を繰り返しても。許せないのは、「彼女のファン『だった』」などとぬけぬけと言う、単なるロリコンのゴミ中年どもだ。心底むかつく。冗談抜きで許せない。連中全員皆殺しじゃー!と言ったら(その数の多さゆえ)キリが無いのでよすが、友達になる事は絶対に不可能なので、口もききたくない。その憎き「元.広末ファン」が賛美するイワユル「ヒロスエ」とは、例のプッツン騒ぎを起こす以前の広末涼子の事である。ついでだからここで断言しておくが、あれはプッツンでも奇行でも無く、アイドル自身による、潔い「カモフラージュの解除」である。「あたしだって人間よ!」「生々しい『女』よ!」「清く正しい『CM美少女』なんかじゃないんだよ!」「あたしは、ロリコンキチガイどもの為の『ヒロスエ』なんかじゃない!」という、心の叫びだった。処世の選択ばかりする無難なニコニコアイドルから脱する、「勇気」。その後の自身に必ずふりかかるであろう取り巻く状況の様変わりへの、「覚悟」。「あたしは止まったら死んじゃうから・・・・」と後にインタビューで語る彼女に、自分はその二つを感じたんです。いわゆる一般大衆・世間(ティーンアイドルに処女性を必死で押し付け、そんなもんにばかりウットリして、無能でダサ男な手前を棚に上げた幻想逃走を繰り返し、純粋真っ直ぐピュアピュアなキラキラ伝説建設を繰り返すボケ中年、その群れこそが、彼女達を苛立たせる「それ」である)全て敵に回す事を、覚悟しなくてはならない。「人気者」から「鼻つまみ者」へ、レッテルを変換(どちらも等しくレッテルに過ぎない)されるのだ。世間はそれを転落と呼んで薄笑いで馬鹿騒ぎして祭り、彼女は今まで以上に心無い陰口を叩かれるだろう。それでも彼女は壊したかった。ゴミロリコンな世の中が勝手に作った、「ヒロスエ」という「存在しない少女」を。イメージという嘘を、ありもしないものを、壊したかったのだ(事実、彼女は友人である桃井かおりとの対談等で「イメージが固まると壊したくなる」と語っている)。そして、それは完全に壊れた。誰が壊した?彼女自身が壊したのだ。壊せたのだ。彼女は成功したのである。勝ったのである。

負け続けている我々庶民は、勝者である「いいオンナ」広末涼子を軽蔑なんて出来る筈も無く、昔も今もこれからも、決して敵わないのである。ずっとずっと、惚れっぱなしでいるべきなのである。あの、悲しい笑顔には。少なくとも自分と弟は、相変わらず惚れっぱなしである。先に死なれるのは、非常に困る。我々は彼女を、非常に愛している。広末涼子を、高知の「いいオンナ」廣末涼子を、愛している。

今週のおかず五品:
TELEPHONE MASTURBATOR/THE PORK DUKES
DIRTY BOYS - YOU DIRTY CUNTS/THE PORK DUKES
DOIN' THE DOING/葉月里緒菜
今夜/井上陽水
勝者としてのペガサス/井上陽水

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