第四十三回  「死ぬまで死んでろ」と唄う友達

「喜怒哀楽」の「怒」が無い方が、その要素が稀薄な歌や音楽を作るバンドの方が、世の大衆に「うける」らしい。いや、むしろそうしないと(「怒」を排除するか或いは、ファッションと重ねながらぼかしてヤンワリと提示しないと)、いわゆる「売れる」様な事は無さそうだ。喜・哀・楽(お祭・パーティ)・恋慕・似非退廃・人生応援・人格肯定・それらを全て茶化すニヒルっ面・全てうやむやにする英詞・見てくれだけのトゲ・速いドラムと歪んだギターと低いベースのデカい音だけで武骨に威張る物真似(そのガランドウ感)・・・・・・そういうものこそ、広く受け入れられ、オルナタティブだのアシッドだのと過大解釈され、寄生虫「自称音楽ライター」の小銭稼ぎに存分に利用され、馬鹿なヤングにモテるのだ。明確な「怒」を持たない(放出しない)ロックと、人に優しいボンヤリバンド。腑抜けた世の中だから、腑抜けたガキや年寄りばかりだから、それで丁度良いとは実に頷ける。「怒るな。愛し合え」と。「悩むな。ゴールは近い。愛は勝つ」と。「選ぶな。差別するな。皆同じだ」「人は皆、哲学者で芸術家。ピースボートに乗る地球市民さ♪」と。「だらだら皆で仲良くハッパ吸ってお揃いのファズ踏んで、長髪ガラシャツ香水同士なあなあで許し合って、テキトーにグループセックスしようぜ」と。そんなサロンの徒が東京中で、見栄張ってぬくぬく群れてやがる。サイケもお揃い。パンクもお揃い。ヘヴィメタルは言うまでも無く、ロックンロールも殆んどが「言い逃げ」で皆同じ顔。所詮は処世の計算ずく。メロディに乗る主張や投げる文句は、どこの畑でも本当に、見本を丸写ししたかの如く、ザ・ブナン。使い回しのお揃いスタンス。下半身の保身が最優先。三十路からの私生活の為に、看護婦探しのコミュニティ道楽。成程、誰も戦いたがらない。戦いたくないのだろう。誰も「戦え!」と言われたくないのだ。「考えろ!」と喝を入れられるのを敬遠して(深く考える者を冷やかし)、本気の拳も上げず、考えるのも掘り下げるのも、ダメージ喰らって挫折して改めて追求するのも、只只単純に「かったるいだけ」なのだろう。逃げてれば済むと信じ、実際済んでるのだろう。ついてるねー。よかったねー。しらばっくれちゃって。死人ども。死人ども。

組織暴力幼稚園というバンドが居る。世辞抜きで、好きなバンドである。園長先生というボーカルが居る。数少ない、大切な友達である。友達だから好きなのではない。好きだから友達になれたのだ。彼は唄う。「きちんと考えろ」と。どいつもこいつも皆「気付かぬ事に気付いちゃいない」と。そのまま(表面だけで垂れ流されてるままで)「死ぬまで死んでろ」と。ライブで客に言う。ゴミ箱を頭から被り汚水を浴びながら、体を掻きむしりながら、何度も何度も、口酸っぱくして彼は言う。「文句があるなら金を返すから、とっと帰れ」と。で、「二度と来るな」と。「僕はビジュアル系が嫌いです。そういうのが好きで普段から死にたい死にたい言ってる陶酔人間は来るな。寄るな。一緒にするな」と。彼らは白塗りをしていて、メンバーの中には明らかにビジュ系ゴス系ナゴム系に傾倒したアプローチをする者も居る。けれど幼稚園はそういう音を出さないし、そういう曲を作らない。当然だが「作れる訳が無い」のだ。何故か。そういう世界とは感覚が真逆の「核」、つまり「園長という男」が、バンドのセンターに在るからである。そんな「彼のバンド」で彼が唄うのは、「彼の唄」に他ならない。彼は、彼自身いわく「精神性の放出」以外に一切興味が無く、つまり、常に身に染み付いた「苛立ち」を小細工なしで文字通り「叩きつける」ライブをやり続け、チラシに手書きでしつこく載せる「断り書き」「殴り書き」と全く同じ喧嘩文句を毎回吐き、唄い叫び、それでもさほど変わらない周囲の空気環境(客や関係者は今こそ胸に手を当ててよーく考えて下さいよ?)に更に苛立ち、毎回毎回地団駄を踏み鳴らし、けれどそれを「発散」「暇潰し」として続ける事しか、それしか頭に無いのである。チマチマ計算もしない。以前は(ナゴム寄りな)エンタメ要素が強かったらしいが、今や演技や道化でディフォルメなんぞはしていない筈だ。彼が、彼を見せるだけだ。どこまでも真面目な「噛みつき」だけだ。真面目なだけだ。ひたすらに、真面目な男だ。真面目に吐露し、真面目に暴れ、真面目に汚し、そうやって「自分自身の構築」を真面目にやってるに過ぎない。俺は彼の組織暴力幼稚園というバンドが、たとえルックスを過剰に舞台仕様にせずとも、物を壊し散らかさずとも、ちゃんとパンクだという事を知っている。だから、そういう要素で盛り上がったり賛美したり、逆に敬遠したり苦笑嘲笑で済ませたりもしないし、そうする連中(ワンサカ居るんだろうけどな)の事を残念不敏に思うどころか、「何て浅い人間なんだ」と心底嫌悪もしている。これは誰が何と言おうと真実なんだからハッキリ言うが、幼稚園のウリ(武器)はメンバーのルックスでもなければ、名前にある様な「暴力」性でもない。考えてみると彼らのバンド名は、「根暗画面」と同じ(当コラムのバックナンバー参照)で、一般大衆客層から貼られるであろう「レッテル」を自ら皮肉で先に名乗っている様な気さえ、俺はしてくる。違うだろうか。ならば彼らの「組織」とは何を指すか?園長という人間、その信念思想(激しい「好き嫌い」の意)、個人の内部の「思念の群れ」を指すのではないか。では「暴力」は何を指すか?その「カモフラージュゼロの独り軍隊(隊長も兵士も自分自身)」による、「誰にも歪ませない自分構築」の「観客を意識しない公開」の事じゃなかろうか。その「精神武力」の行使としての「暴力」を、意味してはいないだろうか。改めて言い直す。このバンドの最大の武器は、ボーカルの園長先生の人格・精神性・覚悟そのものである。彼のインチキの無さ・信念・切実な苛立ち抜きにして、幼稚園は絶対に成立しない(彼は「絶対」という言葉を軽々しく使うヘラヘラ猿どもを日頃から強く呪っているが、今ここで俺が使う「絶対」は文字通りの「絶対」なので、それは信じてもらいたい)。

その組織暴力幼稚園のフルアルバムが完成し、発売になった。断っておくがこれは宣伝ではない。頼まれてもいない。だって既に幼稚園のファンや動員の数は、我々中学生棺桶より実際多いのだから、その必要は無いのである。俺は幼稚園の曲が好きで、園長先生が好きで、このアルバムを聴いてその事を話したくなった。ここのコラムも四十回を越え、ネタも毎週となるとなかなか浮かばす、そんな中、実に良いタイミングだった。園長先生は、(自身の感覚の細かさの結果とは言え)自分と環境の間に溝(ズレ)を感じて敵味方の区別に戸惑って孤立している感じで、俺は友達として、同志として応援したくなった。それらが今回の文章のキッカケである。アルバムは良いアルバムだ。園長の感情と、音作りの技巧・編曲のセンスとのバランスが、ヒリヒリしていて良かった(曲のいたる所でせつない気持にもなった)。完全ライブ主義の園長としては、もっと苛立ちをフルでぶつけるだけの「剥き出しの荒れた音」にしたかったらしいが、他メンバーの心持ちとしては「多方面の人達になめられたくない」というプライドと意地みたいな熱意もあったのだろう(それは当然だ)。自分らの持つ技術と実力の出来るだけの事を刻みたい、と。俺はその両方の「叩きつけたい」を理解したい。許容出来る。両方に同意する。結果として、これは良く上がっている。ケミストリーはちゃんと起きている。聴けば解る。解らない奴は、ライブ観に来たって解らないだろう。阿呆の様に流行モッシュして帰るだけなら、お前は幼稚園の敵だ。園長の敵だ。即ち、俺の敵だ。

今週のおかず五品:
表面幸福論
明るい生き方教室
マミヤの館
陸に並んだ魚の群れ
大人になったらちょうちょになるわ
/組織暴力幼稚園(全て、アルバム「世界ノ罠ニハ騙サレナイ」より)

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