第八十六回 夜中のラブレター(アカンベ混じり)

こうやって言葉をもて遊んで、自分を垂れ流してみても、それを続けても、やはり退屈にはなる。努めて素性を明かして、その先に何がある?笑ってばらして、それで何になるのだ?メリット?そんなものはない。待ち人?そんなものは来ない。得した気分なんか、このままじゃおそらく一生味わう事はないだろう。いわゆる自虐道化とも、違った振る舞いでいたい。そんなものへの直進ではない(そこで生まれるあの特有の「麻酔じみた感覚」以上のものが欲しい)。腐る程いる(骨の髄まで染み付いた「ヤンキーな徒党根性」により、疑いも持たずケナゲに上と隣の真似をして暴れん坊装ってやがる)かっこつけ表層パンクスの「教科書通りのカモフラージュ」が嫌で、違いを叩き付ける為に、自分は喋り続け、明かします。明かしてきました。「隠してたまるか」の態度(隠す連中の「学校じみたサロン・シーン」には絶対に混ざらないという意思表示)です。
しかし、思うのだ。最早それはそれはだいぶ数少なくなったであろう当コラム読者(飽きるのは自由。どんどん離れていけばいい。がんがん知って早く飽きればいい。手前の器の小ささと読みの鈍さと勘の悪さを「幻滅」という言葉に都合良く置き換えて、それっきり目を背けなさい)に、話してみたい事もまだまだある筈なのだが、喋りで生計をたてている訳ではない自分は、文筆業とは程遠い「口の悪いアングラバンドマン」である自分は、今更ながらに「やっぱ餅は餅屋だな」と、そう思うのだ。
何度でも言ってのけるが、自分の「好き嫌い」自体にゃ自信がある。可也ある。が、その紹介方・紹介順・紹介する時の面構えに、些か自信がない(自分がそれらを選ぶのは全部が全部「ろくな技術を持たないから」ではないと思う。要するに「糞意地を張っている」、この一点に尽きるのでないか?)。自信もないのによくもまあ何十回もぬけぬけと偉そうにエロジジイこの野郎…と責められても、これはもうしょうがない。要するに拙い話術のくせして、拙いままに、「口が滑った」のである。滑り続けて八十六回である。滑るものはしょうがない。そうは止められないのも道理である。いつ何をキッカケに滑るのかも、また解らない。解らない事だらけである。そうして気を取り直して今またもや解らなくなった所で、自分のやり方に自信が持てない、という事だ。けれど何をもってして「自信が持てない」のか?己の「直感」だけに信頼を寄せて、いやむしろその信頼さえあるのなら、……信頼?傲慢?ハテサテ…

それでも続けよう(更に滑らせてみせよう)か。
昔読んだ坂口安吾のナントカという私小説風の文中にこうあった。
「知識は結び目を解くのでなしに増やすものだ」
倉橋由美子という作家は「解体」という小説(自意識が前のめっていて矢鱈と落ち着きのないお世辞にも上手とは言えない「勝手な文章の群れ」…というのが個人的な印象ですが。あ、人の事言えませんが…)の中で、驕りと自傷を混ぜた匂いをプンプンさせながらこう言う。
「本を読み過ぎるのは無意味な飽食」「人間は言葉の海綿」「他人の言葉を吸い込んで貯える容器」「ぎゅっとしぼれば他人の言葉を吐く」
幸い、自分は手当たり次第に書物を読み散らし食い散らかすタイプではなく、未だ人様に威張って示せる様な読書量でもなく、まして二度読み三度読みするものとなるとますます限られてしまい、つまり、結局の所、大して本など読んじゃいないのである(「趣味は読書ですぅ」だの「本の虫」だのと並の人間が軽々しく言うものではない。わきまえましょう)。おかしな事に自分は年々、「一ヶ所にじっと落ち着いて過ごす事」が、何だか困難になってきている様だ。読書も勿論「なかなか寝つけずに眠れないまま何度も寝返りをうち続ける」的な落ち着かなさですぐに飽きて、ゴロゴロ動いて座り直してみたり、他の遊びを探してしまうのである。一冊の本だけを集中して読んでる訳にはいかないらしいのである。まあこれは最近の話だが、以前にしても、そこまで読み漁り読み耽るタイプではなかった。大した量を摂取してはいない筈だ。ゆえに自分は一色に染まってしまう事もなく(危なく「単色の太宰狂」になりかけたがそんな時期もどうにか越えて)、ゆえに誰かさんの劣化コピー(特定の「センパイ」専用の拡声器)としてでは決してなく、素直に自身の直感だけで「好き嫌い」という「区別」をお喋りする事や、自身(個人という「塊」)のプロパガンダを誰に撒かれるより真っ先に提示・重ねる事も出来ている。
しかしそんなのもまた、さほど自慢にはならないわな。

そもそも世の大半の人が、いわゆる「パンクス」「パンクロック志向(趣味)のバンドマン」の話す内容に期待しているものと言ったら、教科書通りの「ロックンロール!」「デストローイ!」「HELL YEAH!」みたいた決め台詞の連呼(その際の面構えは「別に不機嫌でもないのにわざとらしくぶすったれたグラビアポーズ」)であり、それはパンクというものが生まれ流行りに流行ってばら蒔かれたその当時から依然として止まり固まったまま、…の様に自分には思える(ファッション・装いとしてのそれはあの時代で潔く死に絶えるべきだったんじゃなかろうか?以来いつの世においても、何十年も昔の雰囲気・スタイルばかり有り難がってその再現という方向に一丸となって向かう事は、どう考えても「パンク」の本質的意味・意義とあまりにもかけ離れているのだから)。進歩のない自称パンクファン(精神度外視!見てくれ至上!)どもに歓迎され共感されるのはいつでも、型にはまった「セックスピストルズ話(シドかっこいい〜ん!男前〜ん!現代のシドヴィシャスは誰〜ん?的なNANAっ娘も含めて)」か「ジョーストラマー話」か「やっぱブルハっしょ!話」「やっぱハイスタっしょ!話」か、俺も昔は散々チームや族で毎晩毎晩寝ずにラリって酒かっくらって悪さしたんだぜ!的「集団ヤンチャ武勇伝」やら、どこどこのブランドの服がお気に入りです的「これ見よがしトゲトゲキラキラファッション依存(ドクロという安直なトレードマーク依存)自慢」か、はたまた、雰囲気と表情の武装で何とでもなる「絶望とやらのポーズ」。そしてとどめはお馴染み(十八番と呼んでも過言ではなかろう)の、「馬鹿がばれるの怖くて無口」である。
自分の様な人間が日々放つ、感情的かつ具体的な「こういう女が嫌い!こういう男も嫌い!話」や「パンクにヤンキー校じみた先輩後輩も命令も体育会系ルールもあってたまるか!敬意自体には年寄りもガキも有名無名のキャリアも一切関係ない!薄ら馬鹿は薄ら馬鹿!裸の王様や犬人間は無差別に唾棄すべし!!話」じゃあ、駄目なのだろうか?誠実で飾りのない「この人に有り難う。あの人にはさようなら」…の話、そういう「肉声」じゃあ、駄目なのだろうか?身をリアルに削るが如く個人的な話…たとえば「また呑み行こうよ〜メールするね〜だと?いつだよ?このアマ!!本当にその気があるなら具体的にしっかり誘え!さっさとメールよこしんしゃい!!!」みたいな雄叫びじゃあ、駄目なのか?
駄目なのである。全てが「お笑い」扱いなのだろう(三の線は自分の宿命だと自覚しているが、それとこれとは別問題だ)。要するに、いつまでも我が憎き怨敵は、世の(小児病大衆から向けられる)「偏見」。そして我が一番の武器もまた、丹念に育ててきたこの凄まじき「偏見」だ。

偏見VS偏見。永遠の戦いである。まさしく目には目を、だ。けれどやっぱり、いつまで経っても報われない。完全に「敗け戦」だ。
だがしかし!決して匙は投げませんよ。我々を(我々が示す「唾棄」を)選んだ支持者の目は、それぞれのその意識は、正しい。あなた方のその顔に、我々は泥を塗りたくない。今後も絶対に塗らないので、安心して見届けていて下さい。
「飽きるまで」で構わないですから。

今週のおかず三品:
ZYG/AREA
二枚舌/解毒
ふるえ/モップス

 

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