第1回 初めての家出青い水平線。

 初めて家出をしたのは、6歳の時だった。愛するママンに叱られて、飛び出したくなって家を出たのだ。叱られた理由は全く思い出せないが、きっと蝉を4649パーツに分解してそれを組み立て直していたのがばれたとか、実験と称してパン粉と歯磨き粉と墨汁とイソジン液の混合物を作って、それを壁一面に塗りたくって涅槃菩薩の絵を描いたのがばれたとか、弟にパーマンの格好をさせて2階からつき落としたのがばれたとか、ゴミ箱に火を点けているところを見られたとかそういう類の理由だろうと思う。えらく叱られた記憶がある。そして大人、という存在に理由なく純粋に反発して俺は家を出た。生まれて初めて家を出たのだ。昔からの、思い立ったら後先考えずすぐ行動するという性格は今でも全く変わっていないと思う。何の自慢にもならないが。
 俺の生家は沖縄県平良市東仲、真っ白い光と悲しい緑のあるところだった。サンエーとか、電電公社とか、保健所の近く。向こうにわいーわいーと行ったら宮古病院。あそこのほうが宮古バス。ヒャクニチソウとハイビスカスとアメリカセンダングサが一年中咲き乱れて強い風の吹く何も無い街。永遠の夏の昼下がり。
 幼稚な癇癪をおこして家から逃げ出した俺は、二度とこの敷居をまたがない、とマイソウルに誓ってドアを乱暴に閉めた。ママンの表情はどうだっただろうか。思い出せない。自分の意思で外へ出た。
 俺は島を出て、どこか遠く、外国に行ってきれいな女の子と知り合って、二人でサーカス団に入るんだ。俺がピエロをやって彼女がブランコ乗り、芸をしながら街から街へ。黒い三輪オートの荷台で寝るんだ。二人一緒なら寒くないんだ。励ましあって、きっといつかは国立舞台に立つんだ。
 そういうことを怒りに任せてぐるぐると思いながら、小さな足で歩数を稼いで海へ向った。船を見つけて島を出るんだ。固い決意。俺の家から港まではほんの3キロほどだった。道順は知っていた。

 夏。

 幼年一人。

 オレンジ色の給油所の前のガソリンの匂い。ガソリンの虹色。ブルーシールを過ぎて、大きながじゅまるが咲く市役所前を通る。坂の上に郵便局が見える。強い島風。塩の匂い。ざわつくギンネムの木。あの坂を越えれば港につく。港に行けば何とかなる。俺は、小さな足を動かして、汗をかいて、坂を登っていった。はあはあ。息が上がる。なんて急な坂なんだ。太陽がわざとらしくだらだらと笑っていた。白い光で。全てを焼き尽くすかのような灼熱で。熱帯。俺は小さい舌を出して体温を調整した。真夏。死ぬほど真夏。汗を垂らして坂を上る。坂を上る汗を垂らして。

 はあはあ。

 上りきった。

 俺は坂を上りきった。そこからは遠くが見えた。見た。俺は景色を見た。俺は思わず小さな拳を握った。その景色の前で俺は立ち尽くした。

 そこには。

 そこには景色が広がっていた。

 そこには人生を曲げる威力を持つ景色が広がっていた。

 まっすぐに、海と空を分ける、青。青。青。

 青い水平線!

青。青。青。青。青。青。青。青。看。青。青。青。青。青。青。青。青。青。看。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青っぽい青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。顔。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。看。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。責。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青につぐ青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青。青と見せかけて青。青。青。青。青。青。青。

 その圧倒性。絶対性。深淵性。脅威。恐ろしかった。青。俺は打ちのめされて声を上げて泣いた。水平線。青。そう、あの青で泣いたことが今でも心に突き刺さっている。止まらない涙。だだだだだと涙。俺は恐ろしくて、哀しくて、ただただ泣いた。

 海の青さに泣いた。

 ただ、泣いた。




 どうやって家に帰ったのだろうか。泣きながら来た道を逃げ帰ったのか。心配して車で俺の事を探しに来てくれたパパンに連れ帰されたのか。もしかしたらあの瞬間に俺は別の世界にワープしたのではないか。もしかしたらあの日に転倒昏睡したまま、今でも夢を見続けているのではないか。あの日に、俺は消えてしまったのかもしれない。あの日に、脳に何かをインプラントされたのかもしれない。全く思い出せない。覚えているものは青、それだけしかない。それだけしか憶えていない。

 ああ、あの青。夢想を破壊し、逃避を否定し、惰眠を告発する現実の青。遥かなる東シナ海の青。俺は、自分の中の激情の虚無に気づき泣いたのだ。俺は、自分の無垢さの無情におののいて泣いたのだ。俺は、広がる未知に歓喜し泣いたのだ。人生は転がっているのではないのか?もっと行かなきゃいけないところがあるのではないのか?感じなきゃいけないものがあるのではないのか?

 チルアウト心臓。
 脳ボンゴレ。
 握り拳と、心の汗。
 初期衝動。
 開国前夜。

 俺は旅人になった。

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