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第2回 カトマンズの闇
屋上でMさんが宿に誰かが置いていったというGivson、とロゴの入ったネックの曲がったギターでボブ・マーリーの「3羽の小鳥」を弾いているのが聞こえる。俺は寝ぼけて考える。頭かきむしる。ああもう、正午過ぎてんだろうな。昨日は少し飲みすぎたか。ヤニだらけの眼をこすって開ける。昨日と同じゲストハウスのドミトリー。臭い灰色のシーツをくるめて枕にして仰向けで天井を見る。ヤモリが2匹這っている。 ネパールにいた。カトマンズ市内のど真ん中、すっぱくて茶色い水のしたたる安宿に泊まっていた。もうこの街に来て幾日経ったろうか。そういえば昨日はブラックジャックで勝ったな。ようし、今日は少し贅沢しよう。起き上がって階段を上って歯磨きがてらMさんと話す。Mさんはギターを弾くのをやめてけん玉をしていた。世界一周を7回くらい連続でしていた。 「おはおーおあいあーす」、と歯磨き俺。 「おお、起きたか。おはよう」とMさん。 冬の朝。空気が澄んでいて晴天でアンナプルナが遠くに見える。真っ白で、でかい。
カトマンズ市内をぶらぶらする。プッシャーとリキシャマンをひやかして、行きつけになってしまったチベット料理店で朝飯のトゥクパを食う。当然バッファローの肉付き。勝者の特権。ガイドブックにでかでかと載っている寺でなんちゃってサドゥーと喧嘩し、ローカーストの人達のスラムを散歩して、お土産屋を覘いて店員と意味無く話しこむ。日本人旅行者に道を教えてあげる。眼があったヨーロッパのヒッピーにウインクされる。ここも北半球だから1月は冬。そんなに寒くは無いけど、すぐに陽が落ちる。宿に戻ろう。仰ぐ空は夕焼け赤。バフ・バーガーを頬張り、頬張り、頬張りながら帰る。途中屋台でムトンの炒め物がうまそうだったから買う。
帰るとMさんがぼろロビーでテーブルに酒とグラスを並べている。鼻歌。ゴールデングレープバーボンっていう200円くらいの安酒。甘ーいジン。甘ーいウイスキー。インドで買った硬いチャイグラス。 「Mさん、まだ陽出てますよ。暗くならないと飲まないって言ったじゃないですか」 「準備だよ準備。準備が楽しいんだよ」 「羊買って来たんで、よかったらこれ食いましょうよ」 「おお、でかした。言っとくけど今夜はカジノ行かないからな。すまんね、いつも酒付き合ってくれて」 「いえいえ、こっちこそ」
「俺はもう酒無いと生きていけないからね。毎朝気分悪いからね。震えるし。昔ギターやってた頃にさ、18くらいの頃かな。先輩に、お前のギターには愛が無い、って言われたんだよ。で、俺もギターうまくなりたかったからさ。むかついて、じゃあどうすればいいんですか?って聞いたら、そいつが、酒だよって言ったからさ。もうそれからずーっと飲んでるよ。今度あったら殴ってやりたいね。あいつ。あいつのせいだよこんなんなったの。酒はうまいわ。」
Mさんは流れる指さばきでフレットを押さえる。素人耳でもわかる。上級の音楽。「天国への階段」「ウェス・モンゴメリの曲」「アイシャルビーリリースト」「愛しのレイラ」「カシオペアの曲」「ゴンチチの曲」「Mさんのオリジナル」「耳コピしたというネパールの民謡」「無常の世界」「花」「風をあつめて」「ハートブレイカー」「19の春」「サンタナの曲」「ノーウーマンノークライ」「サザンの曲」「空も飛べるはず」「ホテルカリフォルニア」…。
「俺はずっとジャズギタリストでやってきたんだよ。もう、飯食うときもギター持っててな。ギターのことばっか考えててさ、結構インディーズではいい線行ってたんだぜ。君の大学の学祭呼ばれて演奏したこともあるよ。でもさ、ジャズバンドじゃ食えないんだよ。やっぱポップスじゃないとキツイなってのがあって、一緒にバンドやってたベースのやつがいてさ、そいつの師匠と俺の師匠も同じバンドで、よく一緒に荷物持ちとかして酒飲んだりしてたやつがいてさ。ちょうどその頃少年隊がデビューするって頃で、バックバンドを募集してたんだよ少年隊の。で、そいつと一緒にオーディション受けに行ってさ、で、受かったんだよ。二人とも。これで音楽でまあまあ食っていけるかなってなったから、師匠にも世話になりました。弟子辞めますって言ってさ。ほんとによかったよな二人とも合格してな、なんて言ってたらさ。少年隊はやっぱテープでやるってことになって、俺らの仕事無くなっちゃってさ。で、もうなんか全部嫌になって、ワーホリでオーストラリアに行ったんだよ。2年間。そのベースのやつとも話して。止められたけど、もういいやってなったから。音楽全部辞めてさ。2年オーストラリア。ぶらぶらしてさ。そんで2年経って日本帰ってきてテレビ見たらさ、なーんか見たことあるやつがテレビ出てんだよ、あいつがテレビでギター弾いてんだよな。それがリンドバーグだよ。参ったね。何がキスミーだって話だよな。あいつベースなのにソロ出してんだよ。ボーカルの女の子と結婚までしやがってさ。あー俺も結婚したい」
Mさんは元ジャズバンドで、ネパールにはパズルリングかなんかの買い付けで来ていた。昼間少し仕事をしてあとはずーっと酔っ払っていた。海外に来ると「社会」も「家族」も「倫理」も「貞操」も「記憶」も「自省」も薄れる。Mさんはとにかく酒を飲んでいた。同じ宿に泊まった日本人とは大抵仲良くなる。Mさんとは、女のこと、酒のこと、音楽のこと、麻薬のこと、仏教のこと、暴力のこと、才能だけじゃ何にもならないって話、絡まる搾取の話、解けない鎖の話、ゴルフの話、命の話、営業の話、雑誌を作りたいって話もしたような気がする。けん玉はほんとにうまかった。
「なんかね、じーっと集中して何かをやるってのが好きなんだよ。ギターとか入りこんでずーっと弾くからね。けん玉もずーっとやってたらうまくなっちった。俺、一級取れる腕前あるからね。けん玉で。おし、そろそろカジノ行きますか」
でっぷり太ったマハラジャインド人がいっぱいいるカジノでルーレット。Mさんは50ドル、俺は8ドル負けた。べろべろになるまで飲んで、安い酒だから頭ががんがんになって、電気の無い国の夜は苦しいくらい黒くて、見上げたら必ず青い天の河が見えて、カジノで会った活発有名私大女子学生がうざくて、女買うならミャンマーか韓国がいい、カンボジアはエイズがあるから駄目だってわめいている旅行者と話をして、金。階級。宗教。社会。国?資本主義?制度?運命?法律?貧困?愛?神?またべろべろになるまで飲んでカジノ付きのタクシーでゲストハウスに帰った。俺とMさん、日本人二人。階段を踏ん張って上って、黄土色の便器に小便を捨てて、鍵開けて入って灰色のシーツに潜りこんで。Mさんは4階。俺は5階。ドアを閉じる音が聞こえる。今日も飲んだ。酔っ払った。終わり。これで今日は終わり。まぶたを、シャッター下ろすみたいに、閉じる。
とぐろを巻いてじっとこっちを見ている闇。弱い俺を告発しようともしない闇。ただ逸らさずにまっすぐ見ている闇。
俺はベッドの中でびびっている。らせん階段を落ちていくみたいだ。これからどこに行くんだろう。どこで死ぬんだろう。何回泣くんだろう。いつまで寂しいんだろう。遠くまで来たのに、何にも近づいていない。何にも分かっていない。何も手に入れていない。何も感じていない。ここはどこだ?ここはどこだ?ここはどこだ?声を出さずに叫ぶ。ここはどこなんだ?ここはどこなんだ?闇の中でぐるぐる天井が回って、ヤモリがけっけっけ、と鳴いた。俺はできるだけ小さく小さくなって眠りに入り込んでいく。真っ暗だった。何も見えなかった。何も聞こえなかった。カトマンズ。カトマンズ。カトマンズ。カトマンズ。カトマンズ。カトマンズ。闇。闇。闇。闇。闇。闇。闇。
おしまい。
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