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第5回 治験
治験は2回やったことがある。旅をするためにまとまった金が欲しかったから。もとい、感動したかったから。
そう、感動、感動がしたかった。感動することばかり考えていた。感動だけを体験したかった。どうすれば感動できるのか。どこに行けば感動できるのか。それだけを考えて暮らしていた。結果的に、俺はバックパックを背負って知ったかぶりの貧乏放浪をすることになったのだけれども、本当は、旅なんかしたくなかった。語弊があるか。感動することだけを考えていた俺にとって、旅、は方法でしかなかった。手段でしかなかった。意味など無かった。感動に触れることだけを考えて行動していたのだ。だから、俺は、旅、なんてつかみ所の無い妖しげな、深い単語で単純な自分のことを表現するのにいささか違和感がある。なんて、まず最初に分かりやすく嘯く。
俺は池袋のダウンタウンを右腕に絆創膏を貼ったまま歩いていた。採血をしたのだ。治験の初期検査と入院の説明の帰り。血液検査の結果エイズも梅毒も肝炎も無事陰性結果が出て、俺は無事に頻尿の新薬のモニターになることが決定した。1週間の入院生活を埼玉で送るらしい。俺はスチールウールみたいな気分で、欠伸をし、空を見上げる。入院後に貰う25万円でインドに2ヶ月ほど行こうと考えていた。「今後一ヶ月は、風俗には行かないで下さい…」と看護婦が恥ずかしそうに説明していたくらいしか覚えていない。俺は何にも無関心だった。無関心。その、平気で何かを侵犯している気分に浸って、これを堕落と呼ぶのかこれを背徳と呼ぶのか、分からず俺は、分かりやすい気分で歩いていた。
入院場所は埼玉の志木の病院だった。朝食後に開発中の新薬を飲んで毎日10回くらい採血してあとはじっとしているだけの毎日。3食はまずい病院指定のやつを食堂で皆で食べる。1週間で25万。隣のTシャツのデザインやってるんすよーの奴とGANTZが面白いって話をしたり、プレステやったり、ひたすらwowwow観てたりする毎日。大部屋。共同生活。同じような入院者は20人くらい。付きっ切りの看護士が5人くらい。モルモット。病院の白い壁が時間を曲げてぬるくて分かりやすい雰囲気を織り成す。無意味という意味と、虚無の感触。天井は高くて、俺はそれをベッドで仰向けに寝て見ている。夜、ふと、天井に、寝たままベッドから手が届きそうな気がして、手を伸ばしてみようかなと思ったけど、周りたくさん人いるし、キチュガイって思われそうだからやめといた。
入院中はもっぱら読書をしていた。メルヴィルの「白鯨」を、世界に名高い退屈文学を、俺は病院備え付けの「魁!男塾」と併読し2日かけて読破した。エイハブ船長の無駄な、分かりにくい情熱に付き合ってページをめくる平日。ベッドの上。どこにも行けない。契約違反だから。狭い活動範囲。病室。船は進む。モビーディックを追って。俺はベッドの上。白い白い、糊の効いていないシーツの上。ふと本を置いて物思いに分かりやすく耽る。採血されてシャブ中の腕みたいに静脈ぼろぼろになった腕を枕にして横になって、時間が過ぎるのを待っている。
病院には娯楽室があった。そこで入院仲間とカード麻雀で大騒ぎ。皆軟禁に疲弊していて、些細なことで爆笑ナチュラルハイ。役者志望の長野県民とデザイナーのアシスタントやってるって奴と眉毛の無い舞踏の人と俺で。全員ヤケになっていて役満しか狙わない麻雀。対面にあるのは怠慢。他人の足を引っ張る方法と、自分と同じ奴がいるということを確認する方法。自堕落民の麻雀。最下層の麻雀。身売りの麻雀。分かりやすいスタンスの麻雀。 「言っとくけど、俺、テンパってますよ」 「いいんじゃないっすか?」 「ポン!」 「それ字一色狙いばればれっすよ。絶対無理ですよ」 「あの、朝食のパンまずいよね」 「あれまずいっすよね」 「まじ勘弁してほしいわ」 「ポン!」 「なんでそこで白捨てるんすか?勇気ありますね」 「数え役満でもいい?」 「ポン!」 「この治験でもらった金何に使うんすか?」 「バイクのローン払おうと思ってさ」 「俺は、なんか、やってみようかなって思って」 「ポン!」 「単騎待ちって、死ぬほどダサいっすよ」 「チー!」 「チー?!」 すぐに夜は更けて消灯時間になる。てきぱき片付けて続きはまた明日。時間は腐るほどあるからね。どうせ俺らはどこにも行けないからね。
検査の為に喉麻酔をして胃カメラを飲む。薬で異常が出てないかを調べる。健康なのに内視鏡を飲む。俺は涙眼で横のモニターを見る。自分の桃色の胃の中を見る。俺の体の中も、テレビで見たのと同じ色形で、俺も人間なんだな、と思う。
ああ、なんてぬるいんだ。馬鹿でかいわりには結構管理の行き届いているぬるいプールの中で、分かれなくて、届かなくて、かきわけて、かきわけて、進まない。進まない。進まない。ってのを分かりやすく実践している。俺は水の中だ。透明で、眼を開ければ遠くまで見渡せるんだろうけど、怖いから眼が開けられないし、しかも俺重度の近眼だし、水の中だからコンタクトは入れられない。俺は裸にさせられて、流れに流される。俺は裸にさせられて、ずーっと浮かんでいて、泳ぎ方が分からない。誰も教えてくれないから。ぬるいプールに浮かばせられている。水を張ったのは誰なんだろう?ど真ん中で、一人ぼっちだ。それにしても、それにしてもぬる過ぎる。
退院日。隣のデザイナー君は検査の結果胃に胃潰瘍ができてしまったらしく今後も通院決定。ケアはばっちり治験。俺はいたって健康。無事に退院することになり、今までのじっとさせられていた時間を思う。ああ、俺は、堕落に片足突っ込んでしまったんじゃないか?ああ、俺は、低級な世界でしか生きられない人種としてこれから差別され続けるんじゃないのか?ああ、何か罪を犯してしまったんじゃないのか?ああ、俺は、どこにむかっているんだ?また分かりやすく、分かりやすく俺はくしゃくしゃになって、そして1週間ぶりに家に帰る。1週間同じ顔ぶれの中過ごしていたため、久しぶりに電車に乗って、人ごみを新鮮に思う。皆同じ顔をしていて、同じ色の服を着ていて、上手に電車に乗っていた。俺も同じ顔を真似して、歩いた。そうしないと、彼らと同じ真似をしないと、切符が買えないから。家に帰れないから。
治験は2回やったことがある。まとまった金が欲しかったから。どんなものなのか興味があったから。旅するための資金が必要だったから。25万円に魅かれたから。何が何でもガンジス河が見たかったから。旅行行くって言えば金出してくれるファンキー家庭に生まれていないから。感動するには移動しなきゃいけないような気がしたから。インドが呼んでいたから。今、自分の周りにあるものでは俺は感動できないのではないのかと分かりやすくスネていたから。多分、下賎な俺の魂の奥に、分かりやすい堕落願望が、スチールウールみたいにかたくくしゃくしゃになって、転がっていたから。
ちなみに2回目の治験で貰った金は四国遍路を歩く費用に使った。
感動。感動したい。
俺は感動がしたい。
ストイックだった。求めているものは一つだけだった。いつも思っていた。人生なんて要らない。生活なんて要らない。生命なんて要らない。俺は感動が欲しい。感動して震えている瞬間が欲しい。その天地を揺るがすような衝撃で、脳挫傷を起こしてしまうような。その氷点下の耐えられない悲壮で、全身の血液が凝固してしまうような。俺は感動していられるなら死んでしまってもかまわない。感動の瞬間だけがあればいい。愛なんて要らない。花なんて要らない。夢なんか家畜に食わせろ。布団も要らない。家も要らない。金なんか要らない。本も要らない。パソコンも要らない。メディアなんか糞じゃないか。社会なんか尿じゃないか。何も知らなくていい。五体満足じゃなくていい。体なんて要らない。健康なんて要らない。仕事なんか要らない。意味も要らない。価値も要らない。親なんて要らない。魂なんて要らない。学歴も、平和も、倫理も、思想も、実存も、新聞も、友達も、恋人も、目標も、運命も、常識も、構造も、身分も、仁義も、達観も、生甲斐も、自意識も、自尊心も、世間体も要らない。感動できるのなら俺は何でも悪魔に売り払ってみせる。何にも寄りかかりたくない。言い切れる。俺はこの世界が大嫌いだ。そして同時にこうも言える。俺は大嘘つきだ。分かりやすいペテン師だ。言い訳で視界を塗り固めて何もできないんだ。みんなが大好きな分かりやすい弁証法性。全部踏まえて俺は最後に分かりやすく嘯く。
見たいものがあるんだ。自分の眼で。自分だけの眼で。聞きたい音があるんだ。自分の鼓膜で。自分だけの鼓膜で。絶対なものが人格を持っていて、そいつに俺に何か提供してくれる力があるなら、見せて欲しい。是非見せてくれ。そこの景色を見せてくれ。聞かせてくれ。教えてくれよ。
何があるのか教えてくれよ。
なあ。
なあなあ。
おしまい
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