第9回 四国遍路編3

7月19日 5分後の世界


 一寸先も見えないところを彷徨っている。「5分後」がけらけらけらけら高笑いしている声が聞こえる。俺はそのことにとことん腹が立って、どうにかして「5分後」の首根っこをつかんでやろうと思って、自分が踊らされているという認識を右脳の隅に感じながらも、ふらふらと前へ進んでしまう。


 野宿しているときは、明るくなってきたらすぐ起きる。道端で寝ているところを地元の人に見られると何かと不都合があるから。どこかの鶏がこけこけ鳴くのを聞きながら寝床を片して、ぴかぴか光るアスファルトの上を次の寺へ向かって寝ぼけ眼をこすりながら歩く。朝6時。バレー部朝練の体育着女子高校生が20人くらい、俺のお遍路スタイルをみとめ、大声で、おはようございます!と黄色い声をかけてくる。恥ずかしいがな。俺は頬を桃色に染めて、あ、おはようございます…、小声で言う。


 路肩にはマリーゴールドがオレンジ色で、こぼれるみたいに咲いている。真っ黒なアゲハ蝶が、夏の中暑苦しくひらひらひらひらひらひらひらひらひらひらひら。向日葵が皆でそっぽを向いていて悲しい。名前のない紫色のトンボが、必死で空中に止まろうともがいている。誰もいない道端のスイカ畑。盗もうかちょっとだけ悩む。誰もいない徳島県郊外、俺は自分の無作為さに弱気になっている。
 ただ歩くだけの日々をもう3日も続けていた。俺はこのまま40日くらい何も得ずにただ歩いて歩いて、行き先に着いて、そして、そこで何を得るんだろう?何も獲得するものはないのではないか?そんな考えが左脳によぎる。俺の行為は無意味で、俺の毎日は無意味で、俺の人生は無意味で、俺の存在は無意味なんじゃないのか?このまま歩いていっても、感動なんて無いんじゃないのか?俺はとぼとぼと歩いている。俺は歩いているんじゃない止まれないだけだ。どっちでもないんだ。スパイラルだ。俺は、とぼとぼと歩いている。



 すると、後ろから声をかけられた。
「兄ちゃん。お接待してやるから、来なさいな」
 しわしわの爺ちゃんが俺を呼び止めた。そしてプレハブ小屋に俺を連れて行ってくれ、茶をご馳走してくれた。その爺ちゃんは多分果物の流通業かなんかをしている人で、遍路道であるここでお遍路さんを呼び止めて接待することを70歳になった3年前から毎日続けているのだそうだ。
「10000人接待したら俺も成仏できるかと思って始めたんやけどな、1年に1000人が目標でやっとったら去年までに3500人は接待したわ。このままやと早死にや。ほれ、ざくろ食えざくろ」
 ぶりんぶりんのざくろは口の中ではじけてざくざく。赤い液がこぼれて甘い。爺ちゃんは俺の不安を見越したのか、誰にでも話すのか、さも当然という口調で四国遍路の心について話し始めた。
「お前はこれから3つのことを学ぶと思うで。まず人の親切な。絶対これからたくさん歩いてお前は疲れるからな。俺みたいなじじいはお前みたいな若いもんが歩いているのを見るとうれしいんや、そういう人の親切を受けてそれに感謝すればええ」
 ざくろがぶりっぶり。爺ちゃんは噛むように言う。
「そして食いもんや。歩いて運動したら食いもんがうまいんや。水もうまいしな。ざくろうまいやろ?」
「んまいっす」俺は言う。口内で租借されて唾液と混ざり合ってビタミンとかなんとかが小腸から吸収されやすいように繊維。繊維質。
「今の人は食いもんの有難みを知らんからな。いい機械やから、うまいもんをいっぱい食うとええで。四国はうまいもんぎょうさんあるからな」
「はい」
「3つめはな。金の有難みや。一晩民宿に素泊まりするだけでも3000円からかかるわ。遍路は金がかかる。働かないから収入も無いしな。出る一方や。食いもんもただやないしな。思った以上にかかるで。お前は汚い格好してるからな。どうせ野宿やろ?でもな、歩いとったらな、泊めてくれたり飯食わせてくれる奴がおる。そういう出会いがあるんや。人から貰う金は尊いで」


 人生で、ほんの1秒後でも何が起こるのかわからない。ほんの一瞬後に俺はマグニチュード30くらいの直下型地震に見舞われるかもしれないし、白いワンピースにセミロングで麦藁帽子をかぶったスイートハニーに出会ってありえないくらい深い恋に落ちるかもしれない。身長が何の前触れも無く20センチくらい伸びるかもしれないし、実家が全焼したって知らせが携帯に入るかもしれない。テレパシーが使えるようになるかもしれないし、いきなり全盲になっちゃうかもしれない。1秒後がこうなんだから、5分後なんて未知の未知だ。さっぱり想像がつかない。俺は危うい人生を手探りで歩んでいる。5分前の5分後は今だ。あの5分前の5分後、俺は物好きな爺ちゃんの説教を聴いている。最高にうまいざくろを食いながら。


 「今日は切幡寺の山の上の駐車場にでも寝ればええ。ちゃんと許可得てから寝るんやで。明日はな、「鴨の湯」という銭湯があるからな、そこに野宿できるところがあるから、そこに行きなさい。次は遍路ころがしや。きっついで」


 爺ちゃんと別れててくてく歩いて、夜。第十番札所切幡寺の真っ暗な駐車場。俺は駐車場の管理人室をかしてもらってそこで寝る。懐中電灯にもなるお気に入りのカンテラの灯で、俺は一日を数えた。どこに行くのか。どうなるのか。俺は、曖昧な「5分後の世界」を想い、その確実性にひれ伏す。そしてまた、「5分後」の笑い声がどこからか聞こえてくる。

 俺はいつでも途上で。

 5分後を追いかけているらしい。

 ねえ。

 ねえ村上さん、あんたが言いたいのはこういうことなんだろう?なあ、俺はあんたのことが結構嫌いだぜ。なあ、なかなか面白いんだな、世の中ってな。
 俺は小さく小さく難しがっているよ。進んでいるのに足踏みしているよ。俺は小さく小さくつぶやくよ。俺は小さく小さく無意味だ。強がって楽しむ。5分後にまた笑われている。高揚してまた眠れなくなる。
 なあ、村上さん、早く死んでくれよ。
 いらいらするからさ。
 早く消えてくれよ。

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