第36回 K 後編

 10月の終わりに、『にやにや笑う』の創刊号を出した。

 11月4日は俺の誕生日だ。2週間くらい前に彼女が、俺の誕生日には遊園地に行きたいと言った。UFJに、行きたいといった。俺は、おう、行こうよ、と言った。彼女は嬉しそうに笑った。前の日の大阪行きの夜行バスのチケットを買った。彼女も俺も楽しみにしていた。ブルースブラザースに会える。楽しみにしていた。


 11月2日。ネットであの映像が流された。一体何万人の人がパソコンのディスプレイの前で顔を歪ませただろうか。俺は散らかった部屋で、古いブラウン管の画面で、暗い暗い暗い真夜中にそれを見た。何回も見た。あまりにも辛くて、あまりにも空虚で、これを俺はトラウマにしなければならないような気がして、俺はあの映像を何回も見た。Kは映像を再生する度に死んだ。屈強なテロリストに背後で経を唱えられて、ナイフで魚みたいに首を切られて、Kは世界中の人間がメディアプレーヤーの再生ボタンを押すたびに血を流した。


 俺は自分勝手なのだろう。戦争はいけない、とか、殺人は悪だ、なんて教科書みたいなことが思えないんだ。Kの顔が自分の顔に見える。Kは何が見たかった?Kは何を感じたかった?Kはどこに行きたかった?Kは何がしたかった?きっとそれは俺が見たいものと大して変わらない。とっても陳腐で軽薄で無責任な感覚だ。首だけになったKの薄目が開いている。何が見えている?最期に何が見えた?そこには、何がある?そこから、何が見える?それを知りたい。死んでもいいから知りたい。でも、こんな死に方はしたくない。家族のことを考えると怖い。今までであった素晴らしい人たちのことを思うと胸が痛い。死ぬのが怖い。殺されるのが怖い。


 Kがイラクで死んだ。

 俺はイラクにいない。


 なぜだ?




 Kの切られた首が、K自身の背中に置かれる赤黒い、血。



 世界がもう終わるような気がした。

 世界がもう終わるような気がした。




 Webで公開処刑なんて、これ以下の死に方があるのか?


 11月3日の夜。あの娘と2人で手をつないで大阪行きの夜行バスに乗った。1日たっても俺は気持ちの整理がついていなくて、頭の中が真っ黒だった。彼女は俺が暗い表情なのが気に食わないような表情だった。
 2人で並んで座席に座った。バスはするすると発進して高速道路に入った。すぐに車内は消灯して真っ暗になった。本当に真っ暗な夜だった。真っ暗な夜をバスがものすごい速さで進んでいくのだった。俺は彼女の手を握って、何がなんだか分からなかった。ずっと、頭の中を終末的な思いが巡っていた。俺は何をしているんだろう、と思った。彼女のことが全然考えられなかった。俺は自分の事だけ考えていた。

 Kは死んだ。彼は俺だ。確実に彼は俺だ。俺は想像する。悪夢を見る。異国のテロリストに首を切られて、国家、なんていう大きなものの理由付けにされて、処刑されるのを。日本で、この国で暮らしていればまずありえない死に方であっけなく死ぬのを。志があったはずなのに、どうにもならずにただ死ぬのを。


 俺はきっと酷い表情をしていただろう。彼女のことをほっぽって、ただ黙って、窓の外の車の黄色い明かりを見ていた。この大きな国の大きな道路を、高速で移動している、バス。バスはどこへ行く?俺はこれからどこへ行く?真っ暗なバスの中で。俺は何がなんだか分からない。夜は墨汁で、漆で、インクで、重油だ。闇がある。先に、音の無い闇。未来が怖い。


 そのとき、
 あの娘が俺の腕を引き、
 俺の頬にやさしく口付けをした。

 そして俺に携帯を見せた。携帯の青く光る画面。壁紙のドラえもんが指差す0:00が点滅している。11月4日になったのだ。彼女は俺の耳元で「誕生日おめでとう」と言ってまた甘いキスをしてくれた。何かがとろけて、何かがやさしくて。夜が一瞬だけ白くなった。
 とても嬉しかった。


 平和だ。


 俺の日常は甘くて、何もしなくてもよくて、何でも許されて、腹いっぱい食えて、ふわふわベッドで寝れて、何でもあって、何にもなくて、溢れてて、空っぽで、幸せだらけで、馴れ合いだらけで、ぬるくて、眠くて、やわらかくて、甘くて。

 すぐに暗転。

 退屈だ。


 真っ黒い夜に。

 遊園地に向かうバスの中で。

 自分のことしか考えられない俺は23歳になった。

 あれから1年経った。

 まだ1年しか経ってないのか。

 忘れるわけがない。

 まだ俺の脳髄にはカメラ越しのKの薄目が貼りついている。

 俺はもうすぐKと同じ歳になる。

 あの娘は今、何をしているのだろうか。

 あのバスはどこに着いたのだろうか。

 あの夜は明けるのだろうか。

 あの黒い死の夜は。

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