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第37回 1泊6日の北海道旅行 出航編
もはや魔法だとしか言いようが無いのではないか。昼が夜になるということはなんと不思議なことなのだろう。あんなに、明るく、白く、どこまでも可視で、楽しい世界が、ほんの数分で群青に覆われ、暗く重たいと闇いう名のカーテンを上からかけられ、夜になる。腐りかけた卵の黄身のような太陽が耳を劈く音をたて西の山に沈むとき世界は真っ赤なオレンジ色になり、そしてそれと同時に東の地平線から数多の星が昇ってくる。世界が夜になる。これが魔法なのでなかったら、これが神の所作でなかったら、私は自分がこの世界で生きているという事実を、この美しいものを感じているという事実を、説明することができない。
――――――――――ヨハン=ウォルフガング=フォン=ゲーテ 1749〜1832
マルクと山田がフェリーターミナルのすすけたガラス張りオーシャンビューレストランで食事をしているうちに勤勉な地球は休まずに回転し、「日本」と呼ばれている地域を太陽光から隠れる位置に移動させ、茨城県大洗町を「夕暮れ」と言われる時頃に変容させるのだった。海の方向は真っ黒になり海と空との境目が肉眼で確認できなくなり、銀色の星が浮き上がり始め、音が無くなり、海の中で青鯨がため息をつき、ため息は泡になって海面で海月になり、その海月が緩衝材となり波がおもむろにやさしくなると、敏感な珊瑚が小さい眼を覚まし、マルクの牛丼のどんぶりは空になった。山田が天丼色のげっぷを天井めがけて乱射していると、マルクはちょっくらジョンに行ってくら、と言い、席を立った。山田は無言で真っ暗な海を眺めた。海面に光る粒がある。漁船だろうか。ホタルイカだろうか。アメリカの灯台だろうか。その粒はやんわりゆれて、だが確実に主張をしているのだった。 闇&光。 その光の確実性に山田はこれから始まる北海道旅行で起こるだろう大冒険の確信を見たのだった。
「やはり、船の中では、酒を飲むとはいえ、暇を持て余すであろうと小生は考えるのである」
その声に山田は振り返る。便所から戻ってきたマルクの華奢な右手には週刊新潮が収められていた。売店で買ってきたということは容易に考察された。 「小生は田中眞紀子のことが気になって仕方が無いのだ」とマルクは言った。山田は少し考えてから、 「あれか。あの頭に毛の無い奴か」とsaid. 「…禿?…ああ、宗男のことか。そう、小生は宗男と眞紀子との血で血を争うような確執に、まるでどこにもない森の誰も知らない泉のように、こんこん、こんこんと興味が湧くのだ」
「ふうむ、宗男と言えば、北海道つながりではないか」 「ほう、気がつかなかった。そう言えばそうであるな。おぬしなかなか鋭いではないか。蝦夷は鈴木宗男の土地であるな。我々は鈴木宗男の土地に行こうとしておるのだ」 「のはは。それは愉快であるな。そうか我々は鈴木宗男の土地に行こうとしているのか」 「そうであるのだ。鈴木宗男の土地なのだ。荒唐無稽であることよ。のはのは」 「宗男ランドか」 「宗男ワールドぞ」 「のはのは」 「のははは」 2人は腹を抱えてのたうつのだった。港で。
苫小牧行きのフェリーは、ぼんと港に浮かんで、繋がれて、あった。でっかい鎖。でっかい錨。フェリーの名前は「へすていあ」というぷにゃけた名前だった。 「結構でけーな。ヘステイアってどういう意味?」 「確か、ギリシャ神話に出てくる炉辺の女神のことだよ。『最も内なるもの』の守護神なんじゃなかったっけ」 「へー、よく知ってるなあ。でも何で平仮名なんだよ」 と山田が言うと、 「アイヌだから平仮名しか書けねえんだよ」 とマルクは得意の差別発言。 時間が来て山田とマルクはジャック・ダニエルと週刊新潮を抱えてフェリーに乗り込んだのだった。2人は船内ではしゃぎにはしゃいだ。 「ゲーセンあんじゃん。え?サウナついてんよ!」 「ミニシアターまであらあ。すげーな。おもしれー。朝に『GO』やるんだ。早起きして観よっと」 「『GO』ってなんだっけ?TSUMABUKIだっけ?」 「KUBODUKAだろ?それとSHIBASAKI」 「ああ、そっか。あれ?窪塚って在日だっけ?」 「在日?え?『GO』ってそういう話なの?」 「違うっけ?あれでしょ?九官鳥でしょ」 「クドカン?」 「そうそれ」 「へー」 「で、在日なの?窪塚は」 「いやあ、知らねえ」 「ああそう」 「いいんじゃね?」 「いっか」 「結構広いじゃん。船」 「本当だ。広いな」 「甲板出てみようぜ!」 「おお、行こう行こう」 「階段きついなー」 「船だからねー」 「ハイヒールの人は大変だね」 「うん。ヒールはいてこなくてよかったわ」 「ほんとほんと」 「危機一髪だよ」 「百舌勘定だもんなー」 「破顔一笑」 「汗牛充棟」 「冬虫夏草」 「草刈正雄」 「うわあ、すげー。ドラマみたい」 「まさに甲板だな」 「フェリーおもしれえな」 「甲板ってこんなんなんだな」 「あー、なんか開放感。寒いけど」 ボオオオオオオオオオ、とありがちな、倦怠と凡庸の愚鈍な音を噴いてフェリーは太平洋に出航した。のたり。くたり。離れ行く岸。離れ行く日本列島。どこまでも続く海。港はすぐに暗闇の向こうの光の集まりなった。山田は東き、指をさしてマルクに言った。 「なあマルク、この水平線の向こうに、アメリカがあるんだぜ」
夜風が2人の間を申し訳なさそうに通る。 「そうだな。そう思うと、LAで過ごした少年時代がフィードバックしてくるよ」
「いやいやいやいやいや、お前海外行ったことないだろ?」 「うん。ちょっと嘘ついてみた」 「ばっ!おっまえは。お茶目だなあ。ぶはは」 「アメリカンジョークだよ」 「てっ。アメリカンジョークぅ?ばかじゃねえの?ぶはは」 「ぶはは。ちょっと洒落てみたんだよ。なかなか滑稽だったろ?ぶはは」 「ぶはは」 「ぶはは」 2人は腹を抱えてのたうつのだった。甲板で。
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