|
第38回 1泊6日の北海道旅行 フェリー編
おそらく江戸で白河樂翁侯が政を執つてゐた寛政の頃ででもあつただらう。萌ゆいた楓が入相の鐘にさめざめと散る秋の夕であつた。其日は暮方から風がやんで、空一面を蔽つた薄いひなぎ雲が、月の輪廓をかすませ、やうやう近寄つて來る冬の冷さが、靄になつて立ち昇るかと思はれる夜であつた。下京の町を離れて、九十九里を横ぎつた頃からは、あたりがひつそりとして、只舳先に割かれる水のささやきを聞くのみである。雲の濃淡に從つて、光の増したり減じたりする月を仰いで默つて居る。それは雅に夢そのものであつた。
――――――――――――――――――――――――森鴎外 1862〜1922
甲板を降り、2人は2等席に向かう。雑魚寝の大部屋。なかなか広くて、客も少ないからいい感じ。 「悪く無いじゃん!」 「6300円にしては上々だよな。当たり当たり」 「よし、俺はじゃあとりあえずサウナ入るわ。そんで10時くらいから酒ってことで」 「オッケケー」 「コケッコー」 2人は船内で荷物を降ろし、貴重品は持ってから別行動。
山田は、暇つぶしに船内を散策した。殺人事件とか、おきそー、と呟き呟き。広い、『展望室』なるものを見つける。ふむ。宴会はここでやるが吉であるな。と呟き呟き。船室の天井にシャンデリアを見つけ、見上げた。あの安っぽいシャンデリアにはきっと細工がされている。練りに練られた計画。午前12時を迎え、何者かに呼び出されたジュニが助かる見込みは万に一つもない。僕らはジュニの断末魔を船内レストランで聞くのだ。そしてそのときは誰も、それが恐ろしいQ仮面連続殺人事件の幕開けだとは全く気づかない。ここは海上のフェリー。犯人はこの船の中にいる。乗組員を入れてこの船にいる人物はざっと100人。ジュニのフィアンセだったという布団屋のスパイク。シャンデリア技師のレオナルド。第一発見者の風来坊ビンセント。ジュニの実の妹、マリア。叶姉妹。千原兄弟。中川家。森三中。たまたま休暇で居合わせた下柳警部。その妻サマンサ警部補。そして今まで幾多もの事件を解決してきた、「歩くサグラダファミリア」の異名を持つ、名探偵及川奈央。単独犯か複数犯か。怨恨犯か愉快犯か。渦巻くミステリー。それに立ち向かう及川のセクシー推理…。 山田の妄想はぷくぷくと、まるで博多の虎ふぐのように膨らむのであった。売店で炎が3つ出て、『網走刑務所』とプリントされたライターを見つけ、600円で買った。甲板に隈なく足あとをつけ、ラウンジのテレビで衛生放送を、おっさんに紛れて観た。大きな風呂に入った。サウナを覗くと、中ではマルクが手をばたつかせぷうぷう言っているのが見えた。
マルクはサウナが大好きだった。小学校のころの短冊には必ず「サウナ」と書いたし、流れ星を見ると、サウナサウナサウナ、と叫んだし、初詣でもクリスマスでも、マルクの願いはいつもただ一言、サウナ、だった。教科書の隅に描かれたパラパラサウナマンガ。「サウナ」とかっこよく書くサインの練習をし、友人を誘ってサウナバンドを組んだ。壁にサウナのポスターを貼った。中学のころサウナと付き合いたいがために、その子を校門前で待ち伏せしたり毎日メールを送ったり(その頃はまだ「迷惑メール設定機能」が無い時代だった)して、そのストーカーじみた行為を父兄まで呼び出され叱咤されたこともある。高校に入るとそのサウナ熱はさらに燃え上がった。当然クラブはサウナ部に入部。読みふけったサウナ本。地獄のようなサウナの特訓。忘れもしない、サウナ修学旅行での、サウナの横顔…。 「ぷはあ。極楽じゃ」 マルクは4畳半ほどのフェリーサウナの一室で叫ぶ。 「やっぱ、サウナ最高!」 そして2時間ほどをサウナで過ごしたのだった。
10時になった。2人は展望室のテーブルに買ってきたつまみとファッキン・ジャック・ダニエルを並べた。 「ところでですね」と山田。 「はあ」とマルク。 「氷は売ってたから買ったんだけどさ。入れものがねえの。グラスとか」 「紙コップは売ってなかった?言えば貸してくれんじゃないの」 「聞いたけど無いって言われた。紙コップも売ってなかった。レストランはもう閉まっていた」 「どうする?ラッパ飲み?口の中で水割り?」 「ま、それでもいいんだけど、一応これ取ってきた」 洗面器2つ。 「風呂場から?」 「そう。未使用だよ。一応洗ったし」 「風呂桶で酒割って飲むの?」 「うん」 「乞食じゃん」 「乞食だね」 「乞食だよ」 「…」 「…」 「まあ、旅の醍醐味みたいな、感じしない」 「洗面器で酒飲むのにお前は旅の醍醐味を感じるの?」 「いやそれは感じないけど」 「だろう?」 「じゃどうすんだよ」 「そらしょうがないから洗面器で飲むさ」 「じゃ文句言うなよ」 「文句は言うだろ。だって洗面器で酒飲むんだぜ?」 「まあ尋常じゃないよな」 「アホだよね〜」 氷と洗面器と水とウイスキー。
フェリーは苫小牧を目指し進む。ゆっくりと、着々と。すんすんと。くんくんと。ぷるんぷるんと。マルクが携帯電話を見ると通話圏外になっていた。そうかここは人が住み生活する地域ではないのだな、とマルクは思った。当然である。ここは太平洋上である。 展望室の窓から見える街の光の届かない夜の海は真っ暗で、空には銀色の天の河がべたりと張り付いていた。それを見て、「なかなか壮観ではないか。美しい」とマルクは言い、洗面器を傾けた。「ああ、絵のようだ」山田が応える。2人は酒を洗面器に注ぎ、その上から水をかけ、割り、飲む。 海の上で。 意外とちゃんと酒の味がするのであった。 汽笛がまたぶおおお、と言った。
↑ページのトップに戻る↑ |