第52回 四国遍路編20

 7月31日 14日目  本格的な夏


 「どこ行くの?」

 「サンポ」

 「そんなにたくさん荷物背負って? 何で?」

 「退屈だから」


 昔読んだ小説の舞台になったところへ行きたいのだが、その小説が何だったか思い出せない。桂浜を出て、道を歩く。途中、闘犬を散歩させているおばさんに出会う。写真を撮らせてもらう。巨大な土佐犬。成金田舎ヤクザ。



 子供の頃のこと。
 7月20日ごろに夏休みに入るのだが、俺は8月1日が来るまでの7月の間はイントロのような気分で過ごしていた。夏休みで7月はオマケで、8月からが本格的な夏。本格的な夏休み。子供時代に私にはそういう感覚があった。7月は夏として居心地が悪い。何かが十分でない気がするのだ。7月の太陽の色は黄色い気がする。8月の太陽は赤い。7月は初夏だ。8月が夏だ。
 だから7月31日には、オマケを使い果たしたような、タネ銭に手をつけるような、借金の利子を払い終わったような、バイトの交通費のような、チューペットの持つところを吸ったような、サラダと味噌汁を先に食べ終わったような、そんな感慨がある。夏の本格的な始まり。倦怠感と緊張感。


 俺は第33番札所雪渓寺の駐車場にいて、自販機で買った冷たいアクエリアスを飲みながら陽炎揺らめくアスファルトの上で交尾している揚羽蝶を眺めていた。ひらり、ひらり、と蝶は交わり、離れ、戯れ、また近づき、交わる。舞う。揺れる。震える。鱗粉が散る。歌う。俺はその猥雑さに心を打たれていた。昆虫の交尾。その単純な下品は、神秘的な所作は、悲しい踊りは、システマチックで、ドラマチックで、ステレオタイピカルで、わざとらしい、面白くない、誰かに書かれた科白を棒読みするような動き。ロボットみたいだ。ぜんまい仕掛けのおもちゃみたいだ。揚羽蝶がひらひらと交尾している。焼けたアスファルトの上で。
 夏だ。
 俺は思った。俺の人生もこんなものなのだろう。ひらひら揺れて汚い社会を業を世界を生きていく。仏教的だ。わざとらしい。上から大きなものに見られている感覚。血の通わない虫が交尾しているよ。節足動物が交尾しているよ。交尾している。
 これから雌揚羽は受精した卵を葉の裏に産みつけ、力絶えて死に、コンクリートの地面に落ちる。目ざとい蟻たちはその躯をすぐに発見し、手際よくそれを分解するだろう。蝶は分解されて女王蟻の胃の中に収まる。雌揚羽と別れた後の雄揚羽は、そのまま熱により起こる気流に乗って今まで行ったことの無い上空へ舞い上がる。そこで灼熱の太陽に照らされ、それでも紙のように羽ばたき、間もなく醜い鳥に食われるのだろう。最期に雄揚羽の斑の眼には何が映るのだろうか。黄色の卵から生まれた幼虫は、誰も教えもしないのに葉を食み、勤勉に脱糞を続け太り、時々赤い角を出して空を威嚇し、ふいに風に煽られ固い土の上に落ちる。そしてそこでひからびたくない、と甲高い泣き声を上げる。その声は旅人には聞こえやしない。幼虫は草鞋に踏まれ臓物をぶちまけて死ぬ。
 夏だ。
 ああ、夏だ。


 雪渓寺で2日前に泊めて頂いた石材屋で出会った15歳の少年と再会する。石材屋には昨日まで泊めていただいて、歩いている途中で知り合った老夫婦の車に乗せてもらってここまできたのだそうだ。「僕よく人に乗せてもらうんですよー」と屈託無く笑い、「じゃあ僕、行きますね」といい、寺の前で車を止めて待っていた夫婦の車に乗り行ってしまった。楽でいいな。太陽がびかびかに光っている。車は粉みたいな排気ガスを出して小さくなっていく。俺は車と同じ方向に杖をついて歩きだす。


 俺の朝飯はコンビニの弁当。昼飯は喫茶店でランチ。夕飯は弁当屋でからあげ弁当。

 それでひたすらサンポ。

 朝焼け。午前の熱射。午後の弛み。夕焼け。群青色の晩。

 弁当屋のおじさんに近くに野宿できそうな場所は無いか尋ねる。近くの公園を教えてもらう。
 「でも暴走族とか来よるからね」
 「大丈夫です。友達になりますから」
 「あ、そうですか」
 俺は公園まで行って迷わず身障者トイレを占領する。暴走族は居ない。公園には誰もいない。野宿はトイレがいい。一人になれるから。鍵がかけられるから。


 東京湾の水平線を2日酔いの脳で眺めていた。曇り空をガラス越しに、固いピンクの椅子に座ってただ見ていた。何を思っていたんだっけ。何をしようと思ったんだっけ。そう、 俺の遍路は、ほんの10日ちょい前にジェット機がばびんばびん言って頭上を通り過ぎていった、あのフェリーターミナルから始まったんだ。いや、始まりはどうでもいい。始まりなんて無い。始まりは俺がこの世界に存在したときだ。あのフェリーターミナルも、この小さなトイレも、あの揚羽蝶の交尾も、同じ世界の中で起こった単なる事柄でしかない。
 俺はずっと動いている。ずっと歩いている。進んでいる。
 それだけだ。

 今日は思えば、山を2つ、村を3つ越えたな。

 いつの間にか進んでいるんだ。あっという間に戻らない一日が終わっていく。

 空気だけはたらふく吸ってる。

 タオルを濡らして体を拭いて、シートを敷いて横になる。足元には便器。タイルが俺の熱の篭った吐息を冷やす。旅先で行き着く静かな4畳半。電灯がセンサー式で、寝返りを打つたびにスイッチが反応して明るくなる。眩しい。

 時計を見ると7月31日23時43分。

 明日から本格的な夏が始まるんだ。

 と、思った。

 俺はすぐに夢に食われた。

 夢の中で揚羽蝶になった。

↑ページのトップに戻る↑