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第63回 四国遍路編28
8月4日 後編
「来るときに、崖に金網がついてたやろ。落石防止の。あれをつける会社を経営しててな。60歳までは月80万は貰っとったんや。国から援助が出るんや。今はもう会社辞めたから、40万くらいやな」 おじいが自慢げに言う。 「そんなにお金があるなら、なんでこの家を新しくしないんですか?」 と、俺が不躾全開で聞くと、 「そんなものに金使うくらいなら、人にやるわ」 と言った。
古い土間。
ぼこぼこの薬缶が転がっている。
俺はうなぎの頭を残した。 おじいの、最近の若いもんは軟弱だ、というような目。でもね、これ絶対おじいも噛み砕けないよ。賭けてもいい。
夕方の風が吹いているのを感じる。そうか。また一日が終わったか。日が暮れるのか。
食後に2人してテレビを見ていると、よさこいの特集番組。おじいはそれを見てなぜか不機嫌になる。「よさこいなんて文化じゃない。阿波踊りのほうがええ。よさこいは土佐の恥や」と1人でぶつくさ言っていて、ちょっと怖い。俺がうなぎの頭蓋骨とどぶろくを飲み食いしなかったから不機嫌なんだろうか。 まあいいや。
俺は気にしない。
飯を食って満腹になったら眠くなったらしく、「じいはもう寝るで。腹いっぱいで寝るときが一番幸せなんやで」、と言いながら横になったとたんに鼾をかき始めた。 感動した。 なんてめりはりのある人なのだろう。全てを肯定するエネルギーに。 脱帽。
ZZZZZZ
「風呂入るやろ」 洗濯機を借りて洗濯をしていると言われる。 「家の風呂は古い風呂やけどな。我慢してくれや」
五右衛門風呂だった。釜。 釜風呂ね。 でっかい釜の下で薪がぱちぱち燃えていて。 水をたして温度を調整し、すのこを踏んで釜に入るのだ。温度調整にぬかりがあると茹で上がってしまうのだ。戸惑いながらも、湯を満喫する。 釜で中まで。 釜でな。 あったまる。
「気持ちええやろ」 「気持ちいいです」
「こんな経験、めったにできないで。東京じゃ絶対できん」 「そうですよね」
釜風呂。
歯を磨く。 四国の山奥の。 名前も知らない村で歯を磨く。 軍鶏の寝た庭に出て歯を磨いている。 今まで何千回も繰り返した所作をこなしている。 今日もしのいだのだろうか。 白くなるように。白くなるように。
歯を磨く。
蚊帳を吊ってくれて、するりと入って、寝床。 タバコ臭い布団に潜って仰向けになって縁側を眺める。 おばあがつけてくれた扇風機が傍らで語っている。
ふと気づくと、網戸の向こうに、夜があった。
月明かりに照らされた庭。
月が出ているのか?
見入ってしまうと深淵。
夜に吸い込まれていく。
体から眠気が噴出す。
声が聞こえてきた。
それはこんな声。
…。
無理していますか? 元気ですか? 求めていますか? 元気でいますか?
何がしたいのかさっぱり分からない。ただ、糢糊たる煌く感情が、林檎のように胸にある。
寝床から月に言う。
月の姿は見えていない。
なあ。
安寧安息平安は要らない。
激情をくれ。
時よとまれ。
時よとまれ。お前は美しい。
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