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第73回 1泊6日の北海道旅行 ベートーベン編
マルクは喫茶店の店内を眺め回した。 なかなか素敵な雰囲気の喫茶店なのだった。白い壁に紫のラベンダー畑の写真が飾られていて、BGMにトム・ウェイツの『グレープフルーツ・ムーン』が流れていた。正方形のエアコンが天井の真ん中に備え付けられていて、そこから暖かい風がせっせと吐き出されていた。こげ茶色の木製のカウンター奥に厨房が覗けて、青いポッドから白い湯気がもくもくもくと上がっていた。カウンターではパンチパーマのおっさんが相変わらずずるずる音を立てながらコーヒーを啜っていて、その後姿がやたらとこの店の雰囲気にフィットしているように思えた。自分の住んでいる街から彷徨して遠く離れてやってきて、知らない街の喫茶店で友人と会話している自分に少し眩暈がした。今まで何なのかさっぱり分からなかった、「旅」、が少しだけ分かった気がした。
からんころん、と鳴ってふいに散切り頭の兄さんが店に入ってきた。冷たい空気が床を這う。 いらっしゃい、とマスター。こんちは、と散切り。 その散切り兄ちゃんは先客のパンチパーマと知り合いらしく、パンチパーマに声をかける。 「こんちは」 「おおう」 「頭パーマ当てたんすか?」 「おう」 「かっこいいっすねー」 「だろう?」 「ベートーベンみたいですよ」 「おおう」 マルクはその会話を聞きながら、「旅」、ってやっぱり訳の分からないもんだなと思った。
「泊まるとこどうする? 先に探してからここらへん観光しようぜ」とでべその山田が言う。 「ほだね」と耳毛のマルク。 2人はここらへんにお勧めの旅館はないかと長まつげのマスターに尋ねる。するとマスターは、「あそこに座っている方は旅館のオーナーだよ」と教えてくれた。
その会話を聞いていたパンチパーマが2人のほうを向く。
パンチ「おおう、君たちは旅人か?」 マルク「はいそうです」 パンチ「大学生か?」 山田 「はいそうです」 パンチ「何処からこられた?」 マルク「東京です」 パンチ「うちの旅館来るか」 山田 「はい行きます」 パンチ「おおうそうか。じゃあね。そこに見えてるとこだから。駅の角のとこ。いつでも来て下さい」 山田&マルク「じゃあ、よろしくお願いいたします」 パンチ「おおう」 さくさくと事が運ぶのだった。
山田が、観光スポットを聞こうと、「ところで、ここらへんで見るものって何かありますか?」と聞くと、パンチは何故か不機嫌そうに、「見るものってのはね、あると言えばあるんですよ。無いといえば無いんですよ。あなたパンフレット持ってるじゃないですか。そこに載ってるくらいのものしかここらへんには無いですよ」と言う。観光業に携わっているパンチは、「見るもの」という単語に過敏反応を示すのだった。だが、明日の朝にここから25キロほどある宗谷岬まで車で連れて行ってもらうことを約束してくれたり、昔、稚内に米軍基地があったころのことを話してくれたりして、ほんとは親切なおじさんなのだった。 山田とマルクは喫茶店を出てパンチパーマのおっさんの旅館にチェックインし、稚内市内をふらふらと散歩した。ロシア語で書かれた商店街の看板が何か悲しかったり、本屋で、じゃんけんに負けたほうが村山由佳の本を買うというプチイベントを開催したり、高台に寺があるので行ってみるとカラスの大群がいて、糞が雨のように降ってきて閉口したりした。
市場をうろちょろしていたら試食用のカニを貰った。そしてそれは死ぬほど旨いのだった。札幌で食べたやつは何だったのだろうといぶかしみながら旅館に戻り、風呂に入ってスーパーで買ったイクラを肴に酒を飲んだ。べろべろに酔っ払って寝た。
山田は久々の布団に感涙しながら、酔いでくるくるする頭で思った。 ここは稚内だ。 何も湧かないな。 さっぱり分からない。 と。
いつもどおり夜がふけていくのだった。
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