第80回 カトマンズデイズ1

 しゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃん
 牙がある。
 大きな大きなベージュの牙がみかんのようにユーモラスな流線形で、冷蔵庫の中のようなどうしようもなく重たく、厚く、深く、眠い暗闇の中に浮き上がって、鈴のような顔をして、霜のような声をして、花のような歌で、そこに、
 ある。
 それは瞼の縁。それは眼球の手前。まつげの奥。乳首の裏。心臓の表面。腹の底。脳の細胞の一粒一粒。首の筋肉。脊髄。米神。眉間。ぐいぐいと押し付けられて鼻腔に痛みを覚えて、俺はむせんで息をしようとする。どうやら入り込んできてしまっているらしいのだ。どうにかしてかき出さなければ。かき出さなければ。かき出さなければ。と俺は空中を懸命にかく。猫のように首をかしげながら必死になってかく。しかし爪には何も触れることなくその大きな牙だけが何の脈絡も理性も悟性も節度なくそこに、
 そこにあるだけなのだ。しゃんしゃん
 しゃんしゃん

 午前3時。頼りない細い右腕でベージュ色のコーンを持ち、フリーサービスのコールタールのソフトクリームを、ぐるぐると巻いている客の居ない平日の漫画喫茶で。店員は居眠りをしているか学校の宿題でもしているのか奥で同僚とセックスでもしているか黄金期のチャンピオンなんかの、『エコエコアザラク』あたりを血眼で読みふけっているのかそれとも居ないのか。死んだのか。消えたのか。何の気配もない。音がない。酸素も少ない。しゃんしゃんしゃん。遠くで野良犬の遠吠えが聞こえる。ここは都会のど真ん中だというのに何におびえているのかせわしなく、犬が星に向かって怒号を散らし続けている。ああ、真夜中だ。そうか真夜中だったのか。俺は黒いソフトクリームを一口だけ舐めてゴミ箱に捨て、ベージュのグラスにメロンソーダをいれて自分の席に戻。もろ。戻って。
 戻って。『デカスロン』の続きを。

 雲南省の少数民族なのかもしれない。オレンジと白と黒と藍色とベージュがデジタルエスニックに織り込まれた悲しすぎる衣装を着た小人が、性別はおそらく女だろう、8人。いやもしかしたら小人ではなくて子供なのかもしれない。そう、外国人の年齢判断は我々にとってとても難しい事象のひとつだ。そう、ほりの深い黒髪の華奢で柔和で艶美な女性が8人白目を向いて手首を曲げ天に掲げ中腰で。そう、内股で。口をすぼめ肩をいからせ骨を見せ屁をこきながら奇声を上げて喜びの踊りを踊っている。ずっとずっと踊り続けている。俺の周りで。彼女らの毛深い腕には、永遠に細かいスパンコールの施された紫色のタンバリンがしっかりと握られている。それを振る。すると鳴る。すぐに消える。しゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃんしゃん。なんて。なんて懐かしい音色なのだろう。


 …はあ。

 俺はため息を吐いてベージュの椅子から立つ。
 あの宿の4階のあの部屋だ。
 数歩で窓辺へ。さささ、と日に焼けたカーテンを開いて窓の下を見下ろす。そこには牛の糞でコーティングされた道が、雨水で淹れた薄いミルクティーを飲むためだけに生きている人たちが、気だるくて青くて臭い塩を吹くトタンの屋根が、喧騒と焦燥と埋葬の重奏で乾燥した無愛想な、俺の回想の街が、見える。
 俺は木枠のベージュ色の汚い窓を開け放つ。

 そこは冬のカトマンズだ。しゃんしゃんしゃんしゃんしゃん

 椅子から立ち上がったときに外れたベージュのCDプレーヤーのイヤホンからルーの歌声が漏れていた。ここまで背負ってきた俺のベージュのバックパックが、窓からの風でかさかさかさかさ、といって倒れた。



 続く

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