第87回 カトマンズのカジノ 上

 11月もう終わりそうで、冬。俺は押入れから引っ張り出した、大学入学のときに体育の授業用にと購入したアディダスのジャージを着て、3年位前に買った汗臭い茶色いマフラーを巻いて駅前の本屋、何を買う当てもなく棚を眺めている。変な惰性で手が動いて海外ミステリの文庫本を一冊購入。夕食時の外へ出ると、スーパーで惣菜と間チューハイを買って帰路。空が真っ黒で、白魚みたいな月がいっこ、ぬらりと出ているのを見て、ああ、この夜は、この空は、あそこの空と一緒だ。この空もあそこに繋がっているのだ。

 俺の首から、全身の毛穴から、どぶの匂いのする液体が記憶で。流れ出てくる。とても気分が悪い。ひんやりとアスファルトの冷気が足元から昇って、そう、あの夜も、これくらいの気温と湿度と暗さだった。




 「ラオスでな、10ドルでやり放題させてくれた女がいてな。あれはいい女だったな」
 40代のおじさんが、さも得意そうに、つばきを飛ばしながら言う。

 遊び帰り。俺らは、ゲストハウスで知り合った20代前半の日本人の野郎5名で、カジノの前で、帰りのタクシーを待っているのだった。夜の街は危ないから、車で移動する。カトマンズの夜中は本当に真っ暗で、夜更かししていると怒られていた子供時代の、あの夜に対する畏怖が蘇ってくるのだった。カジノで負けた奴、買った奴、俺らはギャンブルに人生のひとコマを費やした後の気だるさで重くなった後頭部をもてあまして、しょうもない話で夜を埋めようとしていた。するとそこに40代くらいの日本人のおっさんが現れて、頼みもしないのに旅の武勇伝を語りだしたのだ。
 お前誰やねん。なんて誰も言わない。俺らは、旅先で、ほんの数日前に宿で知り合ったどうしの、無作為の、頭の悪い、若造だから。

 「みんな若いから。女の話が聞きたいだろう? タイとかはもうダメだよね。カンボジアかラオスか、もっと僻地のほうが女はいいよ。5ドルくらいでできるときもあるからさ。エイズとかあるからさ、そういうのは気をつけなさいよ」

 皆、面倒くさそうな顔でおっさんの話を聞いていた。日本人は厄介に関わりたくない種族なのだった。夜はあまりにも暗く、重く、厚く、眠い。若い俺らは誰もその濃さから抜け出せない。誰かは愛想笑いをして、誰かはおっさんの口臭に眉をしかめて、誰かは無言で、タクシーを待っている。帰りのタクシーを、カジノの前で待っている。

 発展途上国の夜は危ないから、タクシーで宿まで帰るのだ。

 午前3時。

 遊びつかれて、俺は、遠い国で、同じ国籍の奴らと、帰りのタクシーを待っている。


 タクシーが来ない。

 タクシーがなかなか来ない。

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